〜神戸−震災の後で〜

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合同慰霊祭の前日、3/4(土)に神戸の地を踏んだ。その日は小雨が時折降 り、スティングの"Fragile"一節を思い出させるように、空が泣いていた。 そのため、いつもは必要な防塵マスクは不要だ。しかし、傘と、そしてハンカチが必要だった。 JR大阪駅からJR元町までの切符を購入した。その先に、もっとも被害の激しかっ た長田区がある。さすがに長田区の敷居は高かった。 JR元町迄行くには、一度代行バスを乗り継がなければならない。老いも若きも 大きな鞄を一杯にして、大阪駅から住吉駅まで来ると、一旦列車を降りて、 500m程先の代行バスの乗り場まで向かわなければならない。その日の買い出し の帰りだ。老いた体には荷は重い。 バスは阪神高速神戸線倒壊した国道43号線を行く。橋脚は工事のために組ん だ足場が、じゃっきがわりとなり、ようやくにして立っているという風だった。 そしてバスはJR灘駅に着いた…。

虫歯だらけの、並びの悪い子供の歯のような町並を通り、国道43号線を後に する。少し路地を入った辺りにJR灘駅があった。満身そういの駅舎には、仮設 トイレが必要だった。順番を待ってもなかなか開かないドアがある。仮設トイ レには紙がないのだ。勝手知たるものでなければ、この事態をまぬがれられな い。支援物資はこのようなところでは不足しているようだ。 再び列車に乗ると、サラリーマン風の中年男性2人の会話が耳に飛び込んでく る。中古の一戸建てを買って、引っ越した日に震災に遭った不幸な知人家族の 話である。その家族は震災が1日前に起こっていれば、借金数千万円を抱えず に済んだ、という。逆に売った方はまさに、よくぞ売り抜けた、という感じだっ たろう。

もう一つの会話が耳を引いた。震災の直後から大阪市西成区あいりん地区(旧 釜ヶ崎)の労働者の姿が見えなくなった、という。震災の第一報は程度の差こ そあれ、大多数の人達にとっては悲報だったろう。しかし、荒涼とした廃虚で は、人々の軽蔑の目はなく、ただ飯にありつけ、毛布にありつけ、復興工事の 職にありつける。一般の悲報は、諸手を挙げて歓迎、とまで行かないにしろ、 彼らにとっては「朗報」だった。

列車は三の宮駅に着く。 ホームに着くと、普段は音しか聞こえない車の車体が見える。廃材を積んだト ラックだ。ホームの下には道路が通っているが、ホームに穴が開き、その下の 道路を覗き見ることができるのだ。 TV報道で連日映し出されていた阪急三宮駅舎は、もう3階部分辺りまで取り壊 しが進んでいる。

地上ではやはり都心にしては人影は疎らだが、ヘルメットを被った人の数が、 一般の通行人の数を上回っている風に見えた。その中には自衛隊の隊員達もい た。

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